【県立音楽堂・横響500回公演記念】

横浜交響楽団(通称「横響」)は神奈川県立音楽堂を活動の中心にしております。ついに今回の定期演奏会が、県立音楽堂における500回目の公演となります。横響の定期演奏会の多さは、日本のアマチュアオーケストラは日本のアマチュアオーケストラは勿論、たぶん世界でも他に例がないでしょう。その発端は県立音楽堂の開設にあります。
 横響は県立音楽堂が1954(昭和29)年11月4日に開館してすぐ、11月21日に第68回定期演奏会を開催し、以後この県立音楽堂において毎月(年12回)の定期演奏会を1982年(昭和52年)の第400回まで公演し、それ以降は年8回の定期演奏会を続けてきました。現在は、県立音楽堂の改修工事のため、お隣りの青少年センターに移った時期を除いて、年末の「第九」が合唱の参加者とお客様の増加のため県民ホール に移りましたが、それでも県立音楽堂のみで年7回の公演を行っています(県立音楽堂の改修工事のため、お隣りのセイショウネンセンターで開催した時期を除く)。
 横浜開港以来、日本は西洋音楽の受容の時代に入り、横浜を起点として多くの音楽会が開かれてきました。1870(明治3)年、オランダ人ヘフト氏によって日本最初の本格的な劇場「ゲーテ座」が本町通り(現在のテレビ神奈川の裏当たり)に開設され、音楽会や演劇、催し物が上演されました。やがてゲーテ座は「パブリックホール」と改称されましたが1909(明治41)年に焼失しました。1886(明治18)年、山手に再度「ゲーテ座」が開設されました。このゲーテ座には滝廉太郎、坪内逍遥、北村透谷、小山内薫、和辻哲郎、佐々木信綱、芥川竜之介、大仏次郎らが訪れました。ゲーテ座は明治・大正期のわが国の文化に大きな影響を与えました。1917(大正6)年には開港記念横浜会館が開設され、以後この会場が音楽会の中心となります。
 しかしながら1923(大正12)年の関東大震災は横浜の文化をすべて灰にしてしまいました。音楽会場は勿論、多くの音楽団体、愛好者たちはその活動を停止せざるを得なかったのです。1927(昭和2)年、開港記念横浜会館は復旧(完全な復旧は1989年)しました。
 横響の第1回の定期演奏会が1933(昭和8)年7月1日、この開港記念横浜会館で開催されました。その後の会場は、朝日講堂、山手町楽団練習所、教育会館、公園音楽堂で1943(昭和18)年8月まで続きました。
 横浜の音楽文化が再び活気を取り戻す前に、戦争によって横浜はより壊滅的な状況に陥りました。
それでも横響は、1946(昭和21)年)11月16日、戦後最初の定期演奏会をフェリス女学院講堂で開催しました。その後YMCA社交室、CIEホール、県立第一高女講堂、神奈川体育館、平沼高校ホールなど、会場を転々としてきましたが、いずれも音楽専用ホールとは無縁でした。
 1950(昭和25)年、図書館法の公布を受けて神奈川県は講和記念事業として県立図書館とともに音楽堂の設置を決めました。音楽懇話会のメンバーとして建設工事に関わっていた横響創立者・小船幸次郎は当然この「木のホール」で演奏できる喜びをかみしめたに違いありません。しかし横響にとってはもう一つの試練がありました。
 創立者の小船幸次郎は県立音楽堂20年史で次のように述べています。

「横響が毎月1回の定期演奏会を開くようになった直接の原因は音楽堂が建てられたことであったのです。音楽堂が建てられた当時はまだ音響が日本一良いなどということは解っていませんでした。ただ音楽専門の会堂が横浜に建つということで、当時急速に盛になったプロフェッショナルの音楽が交響楽団をはじめとして横浜に流れ込んでくるだろうと予想されました。そこでこれまで横響が横浜の交響楽文化を担っていると考えて、1年に4回から6回の演奏を開いていたのを東京から入ってくるプロの交響楽団に任せ、横響は1年に、3回の演奏会を開く本来のアマチュア交響楽団に戻るか、それとも横浜の交響楽文化はやはり横響が担うべきだとして演奏会を新設の県立音楽堂に移し、回数を大幅に増やすべきかの岐路に立たされました。その結果横響は毎月1回演奏会を開くことになり、9月の演奏会で305回というNHK交響楽団の定期演奏会に次ぐ回数を誇る交響楽団になりました。すべて音楽堂が建ったお陰です。」 

 横響は、横響合唱団を併設してから、定期公演の内、毎年春・秋の2回公演を合唱とオーケストラの共演するプログラムを組んでいます。今回はハイドンの作品、オラトリオ「四季」を取りあげます。過去に第408回と第507回の2回公演していますが、16年ぶりにハイドンの大作を演奏します。ご来場をお待ちしています。  
           (yso記)