横響合唱団40年のあゆみ
【横浜洋楽文化史】
1.横響合唱団誕生まで
横響合唱団が、横浜交響楽団(横響)と合唱を共演する団体として誕生したのは、1971(昭和46)年のことです。横響は、これに先立つ1932(昭和7)年に、小船幸次郎によって創立され、翌年7月に第1回の演奏会をハイドンの「驚愕」、他の曲目で始めて以来、幾多の消長を経ながら、多くの管弦楽曲を演奏し続けてきました。その中には合唱曲も含まれ、当然共演する合唱団が必要となるわけですが、幸いにも横浜には、オーケストラと共演できる有力な合唱団が存在していました。戦前から既に、村山拡也の率いる楽苑会合唱団や、金子登の横浜合唱団があって共演が行われ、1943(昭和18)年には、本格的な合唱曲としてべ一トーヴェン作曲の「合唱幻想曲」が、当時少壮の金子登の指揮で演奏されています。
ちなみに著名な合唱指揮者である村山は、独唱者として1940(昭和15)年に横響と共演しています。
戦後の横浜の合唱界には、まず佐藤一夫の指導によるCIE合唱団の誕生、そして山根一夫の率いる横浜木曜会、横浜国大グリークラブ、村山による桜ケ丘高校合唱部が誕生し、合唱コンクール全国制覇など、横浜の合唱界は黄金時代を迎えていました。
戦後、再び小船を指揮者に迎えて、再開した横響もこれらの合唱陣を背景に、今まで取り上げたことのなかった「第九」へと進んでいきました。
1950(昭和25)年に横響は、初のべ一トーヴェンの「第九」の演奏を敢行しました。これはアマチュア音楽の歴史に残る快挙といえましょう。食物にもことを欠く時代、米駐留軍の占領下の伊勢佐木町通りにあった米軍フライヤー・ジムで行われ、聴衆は7000人と記録されています。その整理に警察官も出動したという。この大成功は以後、横響では、毎年末に「第九」の演奏を続けていく意を固めることになったのです。
1952(昭和27)年には、モーツァルトの「レクイエム」を演奏しましたが、演奏会場も時代を反映して、飛行機の格納庫を改造した弘明寺時代の横浜国大工学部講堂でした。これも、この後の本格的な宗教曲を、ほぼ毎年演奏し続ける嚆矢となりました。
翌1953(昭和28)年には、モーツァルトの「コシファントッテ」の演奏を米軍に接収されていた伊勢佐木町の「オクタゴン・シアター」で行い、これも向後の横響のオペラ路線の基となりました。
また、1956(昭和31)年には、ショスタコーヴィッチの「森の歌」を演奏しましたが、これは作曲後7年目であったといいます。
当時、日本ではロシア民謡全盛の時代でもありました。
1954(昭和29)年、音楽演奏に最高との評価の高い、県立音楽堂が紅葉ヶ丘に完成し、横響は、アマチュアとしては画期的な毎月演奏会実施こ踏み切りました。これにつれて、合唱曲も「第九」と共に定期的に行われることになり、1955(昭和30)年2月には、横響との共演を目的の一つとした横浜合唱連盟が組織されました。会長は小船幸次カです。この輪の中に、楽友会合唱団を率いる田頭喜久彌、横浜混声合唱団を指導する吉田孝古麿がいて、共演する合唱団の指導に欠かせない存在となりました。また、YMCAから生まれた草の実会(現在の横浜合唱協会の前身)も横響との共演に大きな力となりました。こうして「カルメン」、「アイーダ」、「椿姫」等が演奏会形式で、また「ラ・ボエーム」の舞台上演が行われました。
さらにヴェルディの「レクイエム」、オルフの「カルミナ・ブラーナ」や、ハイドンの「天地創造」、「四季」などのオラトリオも次々に演奏されています。
さて、このような合唱陣の充実は、皮肉なことに、横響との共演を困難な方向へと押し進める結果になってしまいました。それは、各合唱団ともそれぞれ独自の演奏活動へと進展した結果なのです。これは、時代の趨勢ともいうべきもので、如何ともしがたいものでした。
したがって、横響の合唱曲への参加者は、次第にその数を減らしていきました。
《第九を歌う会》
1969(昭和44)年に至り、横浜市教育委員会の杜会教育課の協力の下に、「第九」を歌う会の会員の一般募集こ踏み切りました。これはかなりの反響を呼び、120名近い合唱愛好者が集まりました。今日・各地でおこ行われている。「歌う会」の原型です。田頭喜久彌の指導により、約10回ほどの練習で演奏会に臨むことになります。この方式は、一応の成功を収めました。
《ミサ・ソレムニスを歌う会》
翌1970(昭和45)年は、べ一ト一ヴェンの生誕200年に当たり、この「第九」の方式を押し進めて「ミサ・ソレムニス」を歌う会の一般募集をしたところ、大きな反響があり、150名を超える応募者がありました。この指導には、初め小船幸次郎は、自身が当たろうとしましたが、たまたま参加者の中こ甲賀一宏を見つけため指導を委託しました。しかし、この曲は難曲中の難曲であり、合宿までしたにもかかわらず、脱落者が相次ぎ、演奏会出席者は、45名という寂しい状況になりました。これは、難曲という問題の他に、組織的な運営の必要性を示唆したことにもなり、本格的に合唱団を組織する方向へと進むことになったのです。
2.横響合唱団の誕生
1971(昭和46)年1月、横響合唱団が誕生した。しかし団員募集の建前は年末の「第九」の演奏が終わると解散というものでした。会費は無料ですが、横響定期演奏会の会員券を毎月1枚買うことが条件でした。母体は前年に演奏後解散した「ミサ・ソレムニスを歌う会」です。早速毎週土曜日、甲賀一宏の指導でフォーレの「レクイエム」の練習が始まりました。
練習場は今はもう跡形もなくなっていますが、桜木町駅前にあった旧中区役所(当時は市民ギャラリー)の2階にあった横響の練習室でした。古い建物のことで窓もきちんと閉まらず、北風が容赦なく吹き込んで、時には雪すら舞いこんできました。ちなみに当時の指揮者であった小船幸次カは「レクイエム」のことを、好んで「レキエム」と言って、プログラムにもそのように書いていました。団の運営は取りあえず佐野肇を代表とし、オーケストラの団員たちが庶務的な仕事をしていましたが、特に原田重一(現在横浜管弦楽団の指揮者)はよく面倒を見ていました。
練習目標は、5月定演の「レクイエム」のほかに、横響と共演する合唱団という性格上、3月にリストの「ファウスト交響曲」での男声合唱が入り、4月にもブラームスの「アルトラプソディー」の男声合唱と、目を回す有様でした。4月の時のソリストは、東京芸大を出たばかりの、ばりばりのテノールの篠崎義昭で、その後はヴォイストレーナーとして大変お世話になりました。
5月26日にいよいよ主目的の第1回の定期演奏が、小船幸次カの指揮のもと県立音楽堂で行われましたが、合唱出演者はわずか42名でした。ソリストは、ソプラノが小川捷子、バリトンは少壮の川上勝功で、川上にもその後、ヴォイストレーナーをお願いすることになります。
次の目標は、10月定期のオルフの「カルミナ・ブラーナ」です。これは、小船の訳詞で行われました。しかし、8月にはボロディンの「ダッタン人の踊り」の女声合唱、ヴェルディの「アイーダ」より「凱旋行進曲」と入り、やっと10月定期を迎えました。
篠崎のカウンター・テナーには、驚嘆の声がしばし消えませんでした。しかし、出演者は更に減り、37名となってしまいました。
その後すぐ「第九」の練習が始まりました。指導は田頭喜久彌で、1960(昭和35)年以来の引き続きの指導です。この年の「第九」の合唱出演者は、69名という最低を記録してしまいました。この頃は、「第九」と共にヘンデルの「ハレルヤ」を歌うのが恒例になっていて、小船幸次カが指揮棒を振っている間は、これが続きました。
翌1972(昭和47)年、合唱団と名はついたものの、運営そのものは、まだ本団にすっかり負っていました。演奏曲目は前半はプッチー二の「蝶々夫人」、後半はヴェルディの「レクイエム」でした。オペラの練習に入りましたが、練習が進むにつれて次第に参加者が減少し、公演当日の出演者は僅か16名(アルトは0)という記録を残してしまいました。
「蝶々夫人」の演奏会は7月15、16、18日と、3日間にわたる上演でありました。会場は、紅葉ヶ丘の県立青少年センターホールです。当時、オペラを上演できるのは、このホールしかなかったのです。合唱団員は、みな自前の衣裳で出演しました。
まだまだ「オペラの楽しみ」など感ずる余裕もなく、てんやわんやといった恰好でしたが、プロのソリストの方たちとの共演を通じて、出演した団員は得難い経験をしたのです。しかし、創立早々の合唱団としては、オペラ・アレルギーという後遺症を残してしまい、創立2年目にして、早くもその存立の危機を迎えてしまいました。
何とか体制を建て直して秋のベルディ「レクイエム」の練習に取りかかりましたが、立野高校のOGグループのコーロ・エッセレを含めても、出演者70名がやっとということで、この大曲を演奏するには致命的な少人数でした。
1973(昭和48)年、前年の大きな試練から、合唱団組織の確立の急務をさとり、組織作りに力を注ぐことになりました。その結果、現在の組織の原型ができ上がりました。
この年の曲目は、前期がハイドンの「天地創造」で、横響の創立40周年に当たり記念演奏会となりました。
5月には、県合唱連盟に加盟しました。
1974年の演奏は、5月の「森の歌」の再演、7月にはモーツァルトのオペラ「魔笛」への出演、10月にはケルビー二の「レクイエム」と定演が続きました。
1975(昭和50)年のトピックスは、新装成った県民ホールでの「魔笛」の上演です。やっと、横浜で本格的にオペラが上演できるホールができたのです。
1976(昭和51)年、「第九」を歌う会の会員募集の記事を広報「よこはま」に掲載し、これによって、「第九」の会の申し込み者数は、前年の164名から248名に一挙に増加しました。これから「第九」の会の熱気が、益々高まっていくことになりました。
この年の演奏曲目は、5月にシューベルトの「ミサ曲5番」、10月はヘンデルの「メサイア」で出演者は75名でした。
1978(昭和53)年は、年初めの1月のステージでフィリピン国歌を歌いました。これは、前年に横響が海を渡りフィリピンに海外演奏をし、その報告演奏会でもあったのです。
この年は横響第350回定期を「天地創造」でかざり、秋は「荘厳ミサ」でした。
この年の「第九」の合唱のステージには、300名を超える人員が乗り、これはもう県立音楽堂のステージの限界を超えた感がありました。客席の方も時間前に満席で、当日売りの窓口の前には100人以上の列、更に続々とつめかけているとのことでしたが、防災上お断りするしかありませんでした。横響「第九」は、以後県民ホールの方でという懇請を頂いてしまいました。
1979(昭和54)年の演奏曲目を見ると、5月にハイドンの「ネルソンミサ」、10月には、メンデルスゾーンの「エリヤ」と、一般的に余り演奏されない曲を取り上げ始めています。これは、合唱団の安定と充実を示すものということができ、また、選曲にっいて、合唱団の希望がほぼ実現できる体制になってきたということでもあります。演奏会での指揮も、合唱曲に関してはすべて甲賀一宏となったのもこの年からです。
この年から「第九」は、県民ホールが演奏会場となり、それが今日まで続いています。
1980年の演奏曲目は、5月はモーツァルトの「レクィエム」、10月はブラームスの「ドイツレクイエム」でした。この2曲共に、合唱を志す人間にとっては、少なくとも一度は演奏したいと志す曲です。したがって練習に参加したメンバーも飛躍的に増え、演奏会では、遂に待望久しかった100名の大台を超えるに至りました。
1981(昭和56)年は、「カルメン」の年と言ってもよいでしょう。横響始まって以来の、本格的なオペラの上演です。全面的に二期会の応援を得て、演出は栗山昌良、装置は妹尾河童と超一流です。
合唱指導も、専門の二期会合唱団の下瀬のり吉になり、次第に意識も高まり、立ち稽古に入る頃は、もう各々の本業以上に集中するようになってきました。
その公演は3月29日、県民ホールで甲賀一宏の指揮の下で行われました。
1982(昭和57)年2月17日、横響そのものともいうべき、合唱団生みの親でもある、小船幸次郎が逝去されました。これは、横響だけでなく横浜にとっても大きな損失でした。小船が横浜に残した業績は、量り知れないものがある。不思議と言うべきか、佐藤美子もこの年に逝去され、前年には、横響創立時からの理事長八十島外衛も亡くなりました。
3月24日追悼演奏会が行われ、合唱団はモーツァルトの「アヴェ・ヴェルム・コルプス」を捧げました。
これからは、小船幸次カの弟子でもあった甲賀一宏が後を受け継がれることになりました。
この年の演奏会は、5月にモーツァルトの「ミサ曲ハ短調」通称「大ミサ」、9月には「森の歌」で、これは、横響創立50周年記念、第400回を兼ねたものでした。
この年の11月3日、横響は神奈川文化賞を受賞しました。なお、横浜文化賞は昭和28年に受賞しています。
12月には、神奈川県の各地で「第九」の演奏が行われるようになり、横須賀への全面的出演のほか、綾瀬市、茅ケ崎市のそれぞれの「第九」に男声部の応援をしました。また、東京芝の郵貯会館でのIMASオーケストラのヴェルディ「レクィェム」にも応援出演しています。
1984(昭和59)年の1月に、本団オケの瀬谷区公会堂での巡回演奏会があり、地元の女声合唱団に応援して、男声部が出演しました。こういうケースはよくある形で、これは、数の上で女高男低という日本の合唱界の様子を端的に示しています。横響は定期演奏会の他に、年に数回、各区へ巡回演奏会に出掛けています。横響合唱団も、時折これに参加しており、1985(昭和50)年に旭区、1986年には瀬谷区、1987年には金沢区、1988年は神奈川区、1989年は港南区、1990年は戸塚区といった具合に出演しています。曲目は、ホームソング中心の親しみやすいもので構成しています。
1985(昭和60)年の記憶に残る大きな出来事は、独自の企画で行った「カルメン」のステージである。ただし、全曲ではなく抜粋で、公演の会場は山手にあるゲーテ座という小さなホールです。
このゲーテ座で行ったのは、ここでなければいけない企画だったのです。1885(明治18)年にこの山手に落成したゲーテ座で11月10日に、来日した、エミリー・メルビル歌劇団によって「カルメン」が上演されました。これが「カルメン」の日本初演です。
ちょうど100年後(1985年)の11月10日に再建されたこのゲーテ座での記念上演だったのです。抜粋上演だったのでナレーションを付けましたが、これをNHKのアナウンサーとしてよく音楽番組の司会をしていた後藤美代子にしていただくという豪華なものでした。
各区への巡回演奏会への参加は、その後も続いていますが、各区にも新しい動きが進みつつあり、戸塚区に区民オーケストラが誕生しました。そして、地域の合唱団との共演が生まれました。この年には、横響合唱団も男声部を中心として応援出演しました。これは、オーケストラと合唱の結合の波として、他の区にも次第に広がりを見せていくことになります。
1991(平成3)年は、合唱団創立20周年という特別な年を迎えました。
そこで、これにふさわしい曲をということで、バッハの「マタイ受難曲」が選ばれました。この曲は通常には演奏され難い曲なのです。理由を幾つかあげると、
(1)全曲演奏に約3時間を要する。
(2)合唱曲の最高峰の一つで難曲である。
(3)楽器編成上参加できない楽器があり、編成も小さく、更に古楽器が入る。
などです。
1992(平成4)年2月3日(日)午後2時、練習に練習を重ねてきた「マタイ」の演奏会の日がきた。会場は県立音楽堂です。慣れっこになっている筈の音楽堂も、この日は何か特別な場所のような感じでありました。3時間にならんとする演奏時間も、長くは感じませんでした。終曲を歌い終わったとき、歌い終わったという満足感とともになにか崇高な心に満たされた充足感は、いまもなお消されることなく続いています。
1994(平成6)年の「第九」は、横響定演第500回という記念の演奏となった。これを記念して「第九を歌う会」も500名募集し、これまでになかった600名近い合唱団で、熱気あふれる「第九」の演奏となりました。
2000(平成12)年は、横響合唱団創立30周年を迎えるという大きな節目の年になった。まず、その記念の演奏曲目として最有力の曲は、バッハの「口短調ミサ曲」です。しかし、決定に至るには、諸条件の解決が必要であった。最終的にはこの曲に決まり、演奏会場も、初めての利用となる「横浜みなとみらいホール(大)」と決定しました。
2009(平成21)年の横響・第九は60回公演を迎え、そして今年2010(平成22)年、横響合唱団は創立40周年を迎えました。
【出典】
・「市民のオルガン」小船幸次郎と横浜交響楽団(横浜交響楽団編著、神奈川新聞社)
・横響合唱団創立30年史(横響合唱団)